健康・医療データ利活用に向け、オランダの先進事例から学ぶもの~次世代ヘルスケア・システム成功の鍵を考える~

健康・医療データ利活用に向け、オランダの先進事例から学ぶもの~次世代ヘルスケア・システム成功の鍵を考える~: ■要旨



健康・医療分野においても、データ活用は重要で、そのインフラとなる情報基盤の整備が進められている。



健康・医療の情報基盤成長戦略上でも重視されるだが、海外に眼を向ければ、同様の取組みにおける先行事例として、オランダがある。



ただし、日本とオランダにも、そもそもの医療制度や保険制度で違いが見られる。その影響は、官民で協力して取組みを進める上で現われてくる。その点も認識した上で、取組みを進める必要がある。



■目次



1――はじめに

2――日本の健康・医療分野の取組み

  1|政府の健康・医療に関わるビジョン

  2│健康・医療の情報基盤の整備と活用

  3|成長戦略における健康・医療の施策

3――オランダのeヘルス推進

  1|オランダにおける初期の健康・医療データ活用

  2│医療情報交換プラットフォームの成立まで

  3│PHR構築の取組み“MedMij”

4――日本とオランダを比較して

5――おわりに健康・医療データ利活用を進めるための情報基盤構築が、成長戦略の中で存在感を強めている。医療機関の間で患者情報を共有する「保健医療情報ネットワーク」や、個人が自らの健康・医療情報を閲覧・把握することを可能にする仕組み「PHR(Personal Health Record)」だ。



こうした仕組みを通じたデータ利活用が、医療サービスの品質向上や、健康増進・疾病予防の推進に役立つ期待は高いが、様々な課題も残されている。海外を見渡すと、一歩先を行く国にオランダがある。日本が学ぶべき点は何だろうか。本稿では、日本での取組みを概観した上で、オランダでの同様の取組みについて述べ、日本への示唆を探る。

 



2――日本の健康・医療分野の取組み

1|政府の健康・医療に関わるビジョン

政府は、健康・医療分野での施策を通じて、高齢化に伴う諸課題を解決しようとしている。2013年6月の「健康・医療戦略」で、健康寿命を延伸し、健康長寿社会を実現する大目標が示された。同時に、医療関連産業の活性化による経済成長への寄与と、高齢化対応の成功モデルを海外に示すことによる国際貢献も目指されている。



そのために必要なことが3点、2015年6月公表の報告書「保健医療2035」で指摘されている。一つが、医療の価値を高めること(「より良い医療をより安く」享受できるようにすること)で、実現に向けて、がんゲノムや人工知能の活用など、多岐に渡る先端技術活用が進められている1。残りが、個人の健康増進の自助努力を促進することと、個人を取り巻く環境の改善を進める健康経営2などの取組みを進めることだが3、全てに共通して重要となるのが健康・医療データの管理と利活用だ。そのために、診断情報等の電子化はもちろん、電子情報の患者や関係機関での共有(ネットワーク化)など、ICT(情報通信技術)利活用を通じた変革が必要となり、その前提として「情報基盤の整備と活用」を進めることが欠かせない。





 




1 2017年4月14日の、「未来投資会議(第7回)」の、配布資料5(http://www.kantei.go.jp/jp/singi/keizaisaisei/miraitoshikaigi/dai7/) 
2「健康経営」は、NPO 法人健康経営研究会の登録商標。
3 こうした取組みによる、保健医療システム再構築することを総称して、保健医療システムの変革(パラダイムシフト)としている。
2│健康・医療の情報基盤の整備と活用

「情報基盤の整備と活用」の全体像は、2016年10月、「保健医療分野におけるICT活用推進懇談会」公表の報告書で提示された。



健康長寿社会実現に向け欠かせないものとして、“国民のwell being”4という理念を掲げ、その実現に向け、「つくる」、「つなげる」、「ひらく」という3つの変革とインフラの整備を行い、医療価値向上や健康増進を進めることが示されている(図表2)。



その具体的な内容はそれぞれ、人工知能の活用と、健康・医療に関わる情報基盤の整備、産官学を問わずアクセス可能なデータベースの構築の3点だ。



いずれも重要だが、「

つなげる」で示された、健康・医療データを統合する情報基盤の構築は特に重要で、政府の成長戦略を見ても、その存在感を強めている。





 




4 同報告書によれば、「人々の様々な生き方に対応し、国民が健やかに暮らし、病気やケガの際には最適な治療を受けられ、いきいきと活躍し続けることができる」ことが“well being”とされている。
3|成長戦略における健康・医療の施策

最新の成長戦略では、医療機関中心の情報基盤と、個人中心の情報基盤、2つに分けて整備を進めることが明記されている。



具体的には、医療機関等の間で個人の健診・診療・投薬情報を共有する「全国的な保健医療情報ネットワーク」と、本人や家族が、個人の健康状態や服薬履歴等を随時確認でき、日常生活改善や健康増進に活用できる仕組み「PHR(Personal Health Record)」だ。



(図表3)に示す通り、健康・医療分野は安倍政権発足初期から重視されていたが、第4次産業革命やSociety 5.0といったデジタル技術活用の重視姿勢が高まる中、健康・医療データ活用の重要性も高まってきた。



そんな中で提示された保健医療情報ネットワークとPHRは、データ活用を通じた「次世代ヘルスケア・システム構築」の中核であり、成長戦略全体でも極めて重要だと言えよう。そうした2つの情報基盤の内容をこれから確認していきたい。(1) 保健医療情報ネットワーク

「保健医療情報ネットワーク」は、患者本人の同意の下、健康・医療データを、全国の医療機関で連携・共有化することで、医療サービスの質の向上を図るものだ。



過去にも特定の地域では、電子データによって医療情報を共有化する仕組み「EHR (Electronic Health Record)」の構築を通じて、医療機関同士でのデータ連携5が図られてきた。



具体的には、単一地域レベルでのEHR構築や、クラウド技術を使って複数地域での情報連携を可能にする「クラウド型EHR高度化」が進められた(図表4)。一部の地域ではこうした枠組みが確立されている。これをさらに進め、EHR未着手の地域も含めた全国レベルの情報共有を目指すのが「保健医療情報ネットワーク」だ。全国の患者の健診情報や診療情報、処方情報がすぐに分かれば、医師はより適切な対応をとれる。医療サービスの価値向上に直結するもので、期待が高い。



この仕組みが実現するサービスは、初診時の活用が目的の「保健医療記録共有サービス」と、救急時の活用等が目的の「救急時医療情報共有サービス」に分けられている(図表5)。



前者は、医師が初診患者も含めた過去の診療情報を確認することを可能とし、診療対応の円滑化や重複投薬の回避に役立つ。



後者は、医療的ケア児6に関わる情報をはじめ、救急時に必要な情報を共有化する。緊急時の対応で役立てることを目指し、前者とは別枠での仕組みの構築を目指している。



将来的には、両者の一体的な運用を図る方向で検討が進められており、医療サービスの質の向上に寄与する期待が高い。



 




5 具体的には、EHRは2000年頃から進められており、特定の地域ではこの仕組みが確立されている。また、直近では、クラウドコンピューティング技術を活用して、それらを連結しようとするクラウド型EHRの取組みも進められている。2017年度から実施されている「クラウド型EHR高度化事業」がその例だ。同事業の中では、クラウド型EHRの整備を行う事業に対する補助も実施されている。(http://www.soumu.go.jp/main_content/000458183.pdf)より
6 生活する中で、病院以外の場所で「たんの吸引」や「経管栄養」などの医療的援助を必要とする児童を指す。(全国医療的ケア児者支援協議会(http://iryou-care.jp/about/) より。) また、「保健医療分野におけるICT活用推進懇談会」報告書では、「急な発作等が生命の危険に直結する医療的ケア児等にとっては、情報共有基盤の必要度は一層高い」と指摘されている。(https://www.mhlw.go.jp/file/05-Shingikai-12601000-Seisakutoukatsukan-Sanjikanshitsu_Shakaihoshoutantou/0000140306.pdf)
(2) PHR (Personal Health Record)

一方、「PHR (Personal Health Record)」は、健康増進・疾病予防に向けた活用や、本人同意に基づくデータ流通の促進を主な目的としている。



PHRの定義は定まりきらないところもあるが、個人を中心にあらゆる健康・医療データを集約するもので、既述の保健医療情報ネットワークも包含する概念と考えることもできる。



そもそも、健康・医療データには、医療機関での治療情報だけでなく、健康診断の結果や服薬履歴、日々の食事や体重といった情報も含まれる。「保健医療2035」でも示された、国民自らによるケアを進めるためには、日常で生み出されるデータは欠かせないものであり、今後その重要性は一層高まる。



政府が目指すのは、そうした健康・医療データを、生涯に渡り時系列で集約するプラットフォームの構築だ7。それを通じて、あらゆる期間・場所で生まれる健康・医療データを、本人や家族が管理・活用することを可能にしようとしている。生活習慣の改善はもちろんだが、データの第三者提供も促進され、それを通じた第三者による活用と、様々なパーソナルサービス実現への期待もあり、健康増進への寄与が見込まれている (図表6)。PHRの、健康・医療データの記録・閲覧といった機能は、既に民間企業の手で実現しつつあり8、政府は、そうした既存の民間サービスも活用しながらPHRのサービスをより充実させようとしている9。こうした動きを経済界も歓迎し10、政府が全国規模でのPHRを構築することに期待を寄せている。今後、官民の協力の下で、より良いサービスが実現することが期待される。



保健医療情報ネットワークとPHRはともに、2020年の実現を目指し、取組みが急がれている。実際の検討・取組みを進める厚生労働省のデータヘルス改革推進本部は、7月の会合で、実現に向けた工程表11を提示した。国民に固有の番号(医療等ID)の導入による被保険者番号の個人単位化と、オンライン資格確認システムの導入12をテコに、加速させようとしている。



では、これらの情報基盤構築が実現した姿はどのようなものだろうか。海外を見渡せば、同様の取組みで一歩進んだ国が存在するが、例としてオランダが挙げられる。次章より、オランダの取組みについて確認していく。



 




8 民間のPHRの例としては、保険者との契約に基づいて、加入者向けにヘルスケアコミッティー株式会社が提供するサービス、「QUPiO(web版)」がある。同サービスでは、スマートフォン等を通じて、健診データをグラフなど分かりやすいビジュアルでいつでも確認できる。このサービスを通じて、自分の健康状態を確認するとともに、健康増進に役立てることが可能となる。


また、別の例が、メディカルデータカード社が提供するアプリ「MeDaCa」だ。このアプリは自分の医療・健康情報の記録と確認、そして医療機関への情報連携を可能にする。具体的には、検査データや処方箋、レントゲン写真や健康診断書といった、身の回りにある医療情報を自分のスマートフォンで撮影すれば、「MeDaCa」で情報を保管・整理できる。保管した内容を病院に見せれば、診察をスムーズなものとすることも可能となるなど、医療機関とのコミュニケーションツールとしても活用できる。
9 「未来投資戦略2017」では、「本人のライフステージに応じて民間サービスを取り入れた多様な活用を可能とするよう、サービスモデルの構築等を来年度までに行う。」とされている。また、「未来投資戦略2018」には、API(“Application Programming Interface”の略。あるソフトウェアから別のソフトウェアの機能を呼び出して利用するための接続仕様)の開放により、民間事業者のデータ活用を後押しすることが、明記されている。
10 経団連 「Society5.0時代のヘルスケア」 (http://www.keidanren.or.jp/policy/2018/021.html)は、Society5.0で目指すヘルスケアサービス実現に向け「『未病』段階のケアや『予防』」が中心、かつ個人データの分析に基づく個別化された内容であり、その実現に向けては、「個人が生まれてから亡くなるまでのライフコース全般にわたり健康データ、活動データ、医療・介護データ等を、本人同意を前提に収集し、セキュリティを確保した上で、それらデータを安全に連携し、個人の意思に基づき活用できる仕組みが必要」と指摘している。また、「将来的には、政府が全国単位の公的な仕組みとして整備することが期待されるが、まずは民間企業、地方公共団体、医療機関等が中心となったサービスの展開によって少しずつ実績を積み上げていくことが求められる。」と述べている
11 2018年7月30日(月) 第4回 データヘルス改革推進本部 資料「データヘルス改革で実現するサービスと工程表について」


(https://www.mhlw.go.jp/content/12601000/000340568.pdf)より
12 被保険者番号の個人単位化や、オンライン資格確認システムについては、以下レポートを参照されたい。


ニッセイ基礎研究所 准主任研究員 村松容子(2018)「医療分野における個人IDの導入で、何が便利になるの?」(http://www.nli-research.co.jp/files/topics/58043_ext_18_0.pdf?site=nli)
オランダでは、2000年代と早くから健康・医療関係の電子データの全国的な連携が図られ、既に医療サービス提供者間でのデータ連携基盤が確立している。現在は、個人による健康・医療データの活用を進めるべく、PHRの構築が進められている。まず、これまでのオランダの健康・医療データ活用の取組みを振り返ってみたい。1|オランダにおける初期の健康・医療データ活用

オランダでは、1970年代から電子カルテの導入が進められ、80年代には、電子カルテが広範に利用されるようになった13。90年代には、複数の医療機関の間でのデータ連携が図られるようになり、海外の医療機関における医療データ連携に関する調査・視察14も行われた。このように、90年代にはICT活用の重要性が広く認識されるようになっており15、この頃から2000年代にかけて、実際のシステム構築の検討も開始された。





 




13 1985年頃には、オランダの家庭医のほとんどが、なんらかの情報システムを患者の情報管理に活用していたことが分かっている。


“Dutch Electronic Medical Record – Complexity Perspective”


(https://www.computer.org/csdl/proceedings/hicss/2010/3869/00/06-03-02.pdf)のP2より
14 例えば、プライスウォーターハウスクーパー社の前身企業のグループ会社、Coopers & Lybrand Healthcared社の関係者が米国の医療機関を訪問したとされている。(http://www.ringholm.de/docs/the_early_history_of_health_level_7_HL7.htm)
15 1996年10月には、政府系会議のRVZ(“Raad voor Volksgezondheid en Zorg”、公衆衛生とヘルスケアに関わる諮問会議) が、ヘルスケアに関わるIT投資の重要性を指摘するレポートを公表している。これを機に、健康・ICT化の重要性は広く認識されるようになった。
2│医療情報交換プラットフォームの成立まで

オランダ政府も、2000年以降、医療機関でのICT活用の調査を開始した16。この調査の中心となったのが、2000年設立のVIZI Foundation(Virtual Integration of Care Information)と、その後継機関で、2001年設立のNictiz (オランダ国立医療ICT研究所)で、後者は現在もオランダの健康・医療データ活用をけん引している。



2003年、Nictizは診療データの交換システム、AORTAを開発し、各医療機関が保有するデータの交換を可能とした。セキュリティ面が優れた17AORTAの開発を契機に、政府中心の医療データ連携体制構築が計画される。



2008年、AORTAを中核とした電子データの記録システムEPD(“Electronic Patient Dossier”、dossierは「ファイル」の意味) が構築され2010年までにEPDを基盤とした健康・医療データ連携を実現すべく、EPDの関連法案が提出された。



同法案は翌年に議会下院での承認を受けたが、個人の不安から反対が広がり、上院での承認が難航した。最終的に2011年、上院が全会一致で同法案を否決し、同法案は廃案となった18



EPDが個人の不安を煽った原因は、情報収集ルールにあった。EPDの個人情報収集ルールはオプトアウト方式をとっていた。オプトアウト方式では、個人は原則としてEPDに情報提供を行うこととなり、情報提供を止めるためには本人からの申し出が必要となる。個人情報収集に関しての本人同意確認が、事前に明示的に行われることがないため、利用者にとっては、気付かないうちに自らの情報を流通させることになりかねない。しかも、EPDでは全ての医療サービス提供者にデータ閲覧の権限が付与されており、情報開示の範囲が広いものだった。このことから、プライバシー保護の点で国民の間で不安が広がり、法案に対する強い反対につながった。



だが、いくつかの軌道修正を経て、データ連携基盤構築のプロジェクトは間もなく再開した。まず、事前に患者の明確な同意を得て情報収集を行う、オプトイン方式が採用された。オプトイン方式では、個人から明示的に許可を得ない限り、個人情報の開示・流通を行うことができない。本人確認の中で、どの医療サービス提供者を開示対象とするか、細やかな本人同意が行われる設計となり、個人の不安の払拭につながった。



また、データ連携基盤の運用機関も変更された。2011年、民間の家庭医、病院、保険会社、薬局、ICTベンダーなどの業界団体によって、VZVZ(“Vereniging van Zorgaanbieders voor Zorgcommunicatie”、医療コミュニケーションのための医療関連サービス提供者団体)という民間の団体が設立され、民間中心に医療データ連携が進められることになった。



こうした点が個人の信頼を獲得し、2012年、関連法案が議会承認を得て、全国的な医療情報交換のプラットフォームLSP(“Landelijk Schakel Punt”、“National switching point”のオランダ語訳)が成立した。LSPは現在、全国民の7割に相当する1,200万人の患者情報をカバーし19、医療サービスの効率化に大きく寄与している。





 




16 なお、オランダ政府はそれ以外にもICT活用のプロジェクトを立ち上げている。2005年から09年にかけて、“Sneller Beter (Faster Better) ”、“Zorg voor Beter (Getting Better) ”、“the Nationwide Action Plan for Social Sectors and ICT (2005 - 2009)”といった例がある。“ICT in Dutch Healthcare”(https://joinup.ec.europa.eu/sites/default/files/document/2014-12/ICT%20in%20Dutch%20Health%20Care%20-%20An%20international%20Perspective.pdf) p.16より。
17 AORTAはデータ分散型の記録システムで、データを各医療機関に分散保管できる点でデータセンターなどへの一括保管に比べてセキュリティ面が優れているとされる。
18 議会上院は、その後の健康・医療データ連携基盤に関する検討を取りやめるよう主張しており、反対が非常に強かったことがうかがえる。
19 遊間 和子、2018年、「迷走する病院IT改革 置き去りの患者、主体性のない国 PART 2 『福祉』から『自立』へ ITで転換を図るオランダ」、『Wedge』2018年5月号:p18~19


また、LSPは2014年1月時点で、オランダの家庭医の75%と、薬剤師の83%をカバーしているとVZVZが発表している。(https://ec.europa.eu/health/sites/health/files/ehealth/docs/laws_netherlands_en.pdf)
3│PHR構築の取組み“MedMij”

だが、オランダでは引き続き、将来的な高齢化による社会保障費の増大が強く懸念されている。2013年に公表の政策文書“The future of health care”で、2010年時点で対GDP比13.2%だった社会保障費の割合が、2040年には31%と大きく増大するという見通しが示され20、医療システムの持続に向け、健康・医療サービスの効率化が急務だと指摘された。当時、ユーロ危機を原因として財政が大きく悪化していたことは、そうした危機感を一層強めた。



健康・医療分野の効率化に向け、オランダが目指すのが、自己責任に基づいた保健医療システムの構築だ。その保健医療システムで必要となるものは、「自己充足、自己管理、自己ケア」という3つのキーワードで説明できる21。自己充足とは、国民が「自らの健康は自ら維持・充足すべき」と認識することだ。自己管理は、国民が自身の健康状態を自ら管理することで、そのためには健康・医療データの基盤が必要となる。そして、自己ケアは、国民がそうしたデータに基づいて生活習慣の改善に取組み、健康増進活動(ケア)22を進めることを指す。こうした枠組みを整えるのは政府の役目だが、その鍵となるのがICT・データ活用を進める取組み「eヘルス」23だ。2014年に、日本の厚生労働省に当たる保健・福祉・スポーツ省は、以下の3つの目標(図表8)をオランダ議会に提出し、達成に向けて様々な取組みを開始している24。そうした取組みの中核がPHR構築だ。PHR構築に向けて、“MedMij(私の健康)”という官民連携イニシアチブが、PHRの技術仕様、プライバシー保護、相互運用性や、情報提供により患者が受けるインセンティブ等の基準やルールの検討を進めている。



ここで重要なのが、官民の役割分担だ。“MedMij”での検討を通じて政府が示すのは基準のみで、PHRのシステム・プラットフォームの提供は、民間のICTベンダーの役割とされている。国民は民間システムの中から自分好みのものを選択でき、民間の力を上手く活用して国民にとって良いサービスを提供することが図られている。



また、政府はPHR構築に向けて、法制度の整備も進めた。2016年10月にクライント権利保護法が成立し、患者のデータを所有する医療機関や事業者は、本人からの要請に応じてデータをデジタル形式で提供する必要があると定められた。これによって、個人が自らの健康・医療データにアクセスすることが可能となった。



こうした取組みを通じて、オランダ政府は個人の関わりの下での持続的なヘルスケア情報交換を可能にしようとしている。このように、PHR確立に向けた準備は着々と進んでおり、今後早期の実現が期待される25



また、2018年7月には、2022年までのヘルスケア戦略である”Outcome based healthcare”が公表されている。PHRの構築を前提に、医療サービスの治療実績(アウトカム)を比較検証可能な形で示し、個人中心のヘルスケアを更に発展させるとともに、国民のクオリティオブフライフの伸長を図る目標が示されている。今後の動向が引き続き注目される。



 




20 Centraal Planbureau “The future of health care”(https://www.cpb.nl/en/publication/the-future-of-health-care) より
21 “ICT & Health No.2 MAY 2017”(https://www.ictandhealth.com/wp-content/uploads/2018/06/ICTHealth_02-2017-DEF.pdf) のp.11~12に掲載の特集” The Dutch healthcare policy is based on shared responsibility”より
22 “オランダはこれ以前から健康増進に注目し、その検討を進めてきた。2010年の報告書“Public Health Forecast”で、「オランダ人は一般に健康だが、更なる改善点がある」と指摘していた。2012年の“Health close to people ”でも、肥満、糖尿病、うつ、喫煙、アルコールの過剰摂取といった症状を課題視し、健康増進によってこれを解決すべきと指摘している。


こうしたデータを活用した健康・医療分野での取組みは、オランダ政府全体としても、戦略分野として重視している。2016年7月に発表された同国のデジタル戦略“DIGITAL AGENDA FOR THE NETEHRLANDS INNOVATION, TRUST, ACCELERATION”は、ヘルスケア分野のデジタル化を重視する姿勢が鮮明で、その中では、図表7で示した健康・福利厚生・スポーツ省の目標も大きく取り上げられている。Dutch Digitalisation Strategy”(https://www.government.nl/documents/reports/2018/06/01/dutch-digitalisation-strategy)より
23  WHOは、eHealthを「ヘルスケア領域において、コスト削減効果があり、かつ安全な形でICT技術を活用すること」と定義している。


(“Global diffusion of eHealth”(http://apps.who.int/iris/bitstream/handle/10665/252529/9789241511780-eng.pdf?sequence=1) p11より)  また、SDGsの目標の一つであるUHC(ユニバーサルヘルスカバレッジのこと。全ての人々が基礎的な保健医療サービスを、必要な時に、負担可能な費用で享受できる状態)を達成する上でも有用であることが指摘されている。(WHOの“eHealth at WHO”(http://www.who.int/ehealth/about/en/)より)  UHCはSDGsにも関係しており、そのターゲット(3.8)では「すべての人々に対する財政保障、質の高い基礎的なヘルスケアサービスへのアクセス、および安全で効果的、かつ質が高く安価な必須医薬品とワクチンのアクセス提供を含む、ユニバーサルヘルスカバレッジ(UHC)を達成する。」と掲げられている。
24 2015年には、ヘルスケアの新戦略 “The Innovation & Healthcare Renewal Programme”も公表している。その中では、民間企業の研究開発支援等を通じ、個人の健康管理と健康増進を後押しするシステム構築など、健康増進を可能にするエコシステム構築とも言うべき、数々の施策が提示されている。
25 2018年3月には、ブルーノ・ブラウンス(Bruno BRUINS)医療大臣が、現地の新聞de Volkskrant紙のインタビューで「健康情報は個人の手元に戻る」と語り、目標とする2019年のMedMij稼動に自信を見せている。
 





4――日本とオランダを比較して

このように、医療データ連携を実現し、PHRの構築にも着手し、今後更なるクオリティオブライフの改善を目指すオランダだが、その例から日本が学ぶべき点や参考とすべき点はなんだろうか。



一つが、個人の不安への対処の重要性だ。オランダでの医療データ連携基盤EPDの構築は、事前の明示的な本人同意を行わないオプトアウト方式をとったために、失敗した。その反省から本人への明示的な同意確認を行うオプトイン方式での情報収集を行ったことで、個人の信頼を獲得し、LSPの成功につながったことは見逃せない。



また、民間との協力関係が築かれている点、民間のノウハウを上手く利用している点も重要だ。LSPの運営者は民間の医療サービス関係者団体VZVZが行っており、国民の信頼感醸成につながっている。



現在構築が進むPHRの枠組みでの、実際のシステムを提供するのは民間企業に任せ、民間の良質なサービス提供ノウハウを上手く活用している。



尤も、見習うべき点が多くとも、オランダの真似をすれば上手く行くわけではない。日本とオランダの違いを認識した上で取組みを進めなければならないのではないか。



例えば、医療制度だ。オランダでは家庭医(GP)の制度が定着している。家庭医が医療のゲートキーパーの役割を果たし、家庭医が対応しきれない専門的な治療については、病院が対応するという分業システムが確立している。そのため、医療のフリーアクセス制度がとられる日本と比べて、個人医と大病院での情報連携、データ共有化の必要性は高い。また、家庭医が休暇を取得するために代理医師制度が整備されており、家庭医と大病院の間だけでなく、家庭医同士でも情報共有が必要とされている。



そうした中で、他の医療機関へのデータ連携に関わる本人同意取得手続きも十分に行われていると考えられる。一方、日本においては、本人同意の方法などを定めた個人情報ポリシーは医療機関によって様々であり、その調整には労力が必要となる。本人同意確認が適切に行われるかどうかも課題になると認識しなければならない。



社会保険制度にも違いがあり、官民の協力に影響を与えていると考えられる。オランダの社会保険制度においては、民間保険会社が、公的な役割を多く担っている。円滑な官民の協力に寄与している。VZVZのような民間コンソーシアムが出来たのは、そうした制度の背景もあろう。日本においても、健康・医療データの連携に向けた官民の協力は欠かせないが、官民会議の開催など、コミュニケーションを深める努力はオランダ以上に必要となろう。



官民の協力はヘルスケア分野に限らず、ヘルスケア同様、戦略分野として重要な位置づけにある農業分野もその例と言える。オランダでは農業分野での産学官の協力によって、高い成果を実現していることが知られている。具体的には、ビニールハウスなど栽培施設の温度や湿度、日射量や風向き農業分野のデータを活用して得た知見を産官学で共有することで、生産性向上に成功している。こうした点から、オランダにはデータ活用に関わる強みもあると考えられる。この点でも日本に比べて進んでおり、違いの一つとして認識すべきと言えよう26





 




26 日本においては、データを集めてもどう活用していいか分からない企業なども多い。今後の改善点と言えよう。
 





5――おわりに

本稿では、日本とオランダを比較して、政府による健康・医療データ活用の取組みについて概観した。その結果、日本も先進的なオランダの取組みを取り入れようとしているものの、そもそもの保健医療制度の違いや、民間保険会社と公的保険制度の関わり方の違い、データを活用した研究や実証事業の実績に差があることにも注意を払わなければならないという示唆があった。



なお、本稿では課題の中心として扱わなかったものの、健康・医療データの基盤構築を進める上では、システム面での互換性やコスト、セキュリティ確保といった課題27もある。また、PHRについては、その性質上、データ収集における困難も存在し28、個人にどのような情報を開示すべきか、議論の余地もある29



こうした困難はあるものの、社会保障の持続性確保に向けて、医療・介護効率化は引き続き急務だ。また、働き方改革と、労働者の生産性向上の観点でも重要性が増している健康増進においても、データ活用が鍵となる。各種課題の解決に向け、民間とも一層協力し、しっかりとした合意形成を行いながら、健康・医療データ基盤の構築が進むことが必要だ。官民でのデータ活用に関わる検討は活発になってきた。こうした動きが今後一層広がっていくことに期待したい。



 




27 保健医療情報ネットワークには、システムの互換性の課題もある。これは、個々の医療機関だけでなく、地方レベルのEHR同士でデータを連携する上でも同様だ。例えば、EHRそれぞれが異なるITベンダーからシステムを導入している場合、双方で利用されるシステム規格が異なることが原因で、データ連携に支障をきたす場合がある。EHRによって複数の医療機関で情報共有を実現するには、高額の新機器の導入費用及び管理コストが必要となる。具体的には、電子カルテや情報共有用サーバーの導入が必要となるが、その費用は億単位となり、数年ごとの更新費用も求められ、医療機関にとって大きな負担となる。
28 PHRは、本人の意思に基づいて情報を管理する仕組みであり、本人同意の問題は解決できるものの、データ収集に課題がある。医療データ収集には病院等医療機関の協力が欠かせないが、医療機関が、保有する医療情報の患者への開示に消極的な場合も多い。その理由として挙げられるのが、医療情報提供は医療機関の義務ではないという考えだ。この考えに基づくと、PHRはあくまで患者が医療機関から提供を受けた情報を自己責任で保管していくもので、医療機関の責任の範囲外だということになる。
29 あらゆる医療情報を開示することには問題やリスクも付きまとう。例えば、医療情報の中には、その理解に高度な専門知識を要するものもあり、そうした情報を持て余してしまう人は少なくないだろう。また、医療情報を与えられても、正しい行動をとれるとは限らない。例えば、インターネット上の情報を鵜呑みにして、誤った対応を取る危険性もある。そう考えると、患者への情報提供に際しては、医師の適切な判断やサポートが必要となる場面もあると言えよう。こうした点も考えつつ、適切な仕組みを構築する必要がある。
 



 







(お願い)本誌記載のデータは各種の情報源から入手・加工したものであり、その正確性と安全性を保証するものではありません。また、本誌は情報提供が目的であり、記載の意見や予測は、いかなる契約の締結や解約を勧誘するものではありません。
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