契約者行動と保険会社経営-契約者の行動に、保険会社はどのように対応すべきか?
契約者行動と保険会社経営-契約者の行動に、保険会社はどのように対応すべきか?: ■要旨
国際アクチュアリー会(IAA)は、保険会社のさまざまなリスクを取り上げて解説する「リスクブック」を発行している。2017年に、その第18章として、「契約者行動と管理活動」が発行された。
保険会社にとって、契約者の行動は、経営上、大きなリスクとなる可能性がある。保険会社は、契約者行動に関する実証分析や、それに応じてとるべき管理活動の研究を進めている。
本稿では、レポートの内容をもとに、契約者行動と保険会社経営について、概観することとしたい。
■目次
1――はじめに
2――契約者行動の特定と認識
1|契約者行動は合理的なものばかりではない
2|リスク基準などに、契約者行動を考慮する取組みが広がっている
3――契約者のオプションと行使トリガー
1|契約者のオプションには、さまざまなものがある
2|オプション行使トリガーにも、さまざまなものが考えられる
4――契約者オプションの管理と保険会社の管理活動
1|契約時のオプション設定が重要
2|保険会社が契約後にとることのできる管理活動は限定される
5――行動経済学の応用
6――おわりに (私見)国際アクチュアリー会(IAA)は、保険会社のERM1に向けて、さまざまなリスクを取り上げて解説する「リスクブック」という名前のレポート(以下、単に「レポート」)を発行している。2017年に、その第18章として、「契約者行動と管理活動」が発行された2。
保険会社にとって、契約者の行動は、経営上、大きなリスクとなる可能性がある。たとえば、契約を解約するという契約者の行動は、大数の法則が成立する一定規模の保有契約群団を前提として、安定的に事業運営を進めようとする保険会社にとって、脅威となる。昨今の情報通信技術(ICT) の高度化や、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の広がりを背景として、契約者の行動は、複雑多様で即時性の高いものに変容しつつあるとみられる。これに対して、保険会社は、契約者行動に関する実証分析や、それに応じてとるべき管理活動の研究を進めている。
本稿では、レポートの内容をもとに、契約者行動と保険会社経営について、概観することとしたい。
1 Enterprise Risk Managementの略。全社的リスク管理を指す。
2 2018年12月現在、20個の章がラインアップされており、そのうち18個の章が発行されている。IAAのアドレスは、http://www.actuaries.org/index.cfm?lang=EN&DSP=PUBLICATIONS&ACT=RISKBOOK 。第18章のタイトルは、“Policyholder Behaviour and Management Actions”Jari Niittuinperӓ (IAA Risk Book Chapter 18, approved on 14 February 2017)
2――契約者行動の特定と認識
そもそも契約者行動はどのように特定、認識されているのか。まず、この点からみていこう。
1|契約者行動は合理的なものばかりではない
一般に、契約者には、契約の失効や解約をはじめ、契約転換、積み立ててきた配当金の引き出し、契約者貸付制度の利用など、さまざまな選択肢(オプション)が与えられている。経済金融情勢の動向や、被保険者の体況変化などに応じて、これらのオプションの価値は上がったり下がったりする3。加えて、契約者の資金ニーズの変化なども、これらのオプションの行使に影響を与える。
契約者行動には合理的なものもあるが、そうとばかりはいえない。人間は、機械と違って、意思や感情を持っている。それらが、行動に大きな影響をもたらすためだ4。レポートでは、合理的な契約者行動の例として、つぎのものが挙げられている。一方、契約者が行動を起こすのに必要な情報を十分に持っていない場合や、契約そのものとは別の特殊な事情(契約者の急迫した資金ニーズや、保険会社の風評関連報道など)がある場合には、不合理な契約者行動が発生する可能性がある、としている。たとえば、別の契約者によるモラルハザードや逆選択、保険金詐欺などが起こると、それによって契約者の不合理な行動が生じることがある。
3 オプションを行使すると利益が得られる状態はin the money、利益が得られない状態はout of the moneyと呼ばれる。
4 人は理屈ではなく感情で動く生き物である、ということが言われることもある。2|リスク基準などに、契約者行動を考慮する取組みが広がっている
現在、リスク管理や会計基準の見直し検討が行われている。その中で、将来のキャッシュフロー推計を行う際に、契約者行動を考慮することが、規定として盛り込まれるようになってきている。
(1) ヨーロッパにおける保険会社の健全性規制 (ソルベンシーII規制)
保険や再保険の引き受けにおいて、契約者が、失効、解約などの契約上のオプションを行使することを見通す際は、過去の契約者行動の分析や、想定される契約者行動の見積もりを行う5。
(2)保険契約に関する国際会計基準 (IFRS 17)
保険契約のキャッシュフローの評価の際は、契約者行動についての保険会社の見方を反映する。また、リスク調整を行う際は、実際の契約者行動が、想定していたものとは異なった場合について、保険会社の見方を反映する6。
規制上や会計上には、「契約境界(contract boundaries)」に関する規定もある。契約境界とは、保険料のキャッシュフローを認識するかしないかという境界を指す。つまり、既に締結された契約と、まだ締結されていない将来の契約の間の線引きである。現在の規定によると、この契約境界を見極める際に、契約者行動やそれに対する管理活動を考慮することとなる。
たとえば、保険会社側が契約を終了したり、保険料の収納を拒否したり、保険料や給付内容を改定したりすることができる旨の契約条項がある場合、それらに対する契約者の反応が予想される。このため保険会社は、契約者の反応を予想して、それを契約境界の設定に反映させなくてはならない。
ただし、ORSAシナリオ7、ALMモデル、市場整合的な経済価値(MCEV)ベースでの試算の場合は、こうした契約境界を外すことが適当となる8。すなわち、契約者行動の想定を、リスクが消失するまでの期間に渡って、保持し続けることが求められる。特に、契約境界が1年以下で、保険会社が新契約の販売効果を試算に反映したいと考えている場合、契約境界を外して長期の収支をみることが必要となる。
5 “Implementing measures on SolvencyII”Commission Delegated Regulation(EU)2015/35, art26
6 Insurance Contracts - Exposure Draft ED/2013/7
7 ORSAは、Own Risk and Solvency Assessmentの略であり、 リスクとソルベンシーの自己評価のことをいう。
8 ALMは、Asset Liability Managementの略。MCEVは、Market Consistent Economic Valueの略。
3――契約者のオプションと行使トリガー
レポートでは、契約者行動に影響を与えるオプションと、その行使トリガーの例が列挙されている。
1|契約者のオプションには、さまざまなものがある
レポートでは、契約者のオプションとして、14個の項目が挙げられている。これらは、必ずしも網羅的とはいえないが、保険契約の代表的なオプションを把握する上では、意味があるといえるだろう。2|オプション行使トリガーにも、さまざまなものが考えられる
契約者がオプションを行使するかどうかについては、いくつかのトリガーが考えられる。レポートでは、つぎの11個のトリガーを例示している。オプションに付随する潜在的な費用をモデル化するためには、トリガーを把握する必要がある。
シンガポールでは2003年に、重症急性呼吸器症候群(SARS)が発生し、観光客のキャンセルが相次いだ。その結果、経済不況となり運輸、観光、小売業などで従業員の大量解雇が行われた。解雇された従業員は、加入している保険契約を失効させた。つまり、SARSの発生が契約失効のトリガーとなった。
また、別の事例。医療保険を取り扱うある保険会社が、契約者に、医療費の支払いに使用する保険会社カードを渡した。契約者は、そのカードを使えば費用負担なしで病院の医師の診療を受けられる。診療する医師は、診療による患者の費用負担がゼロであることを知り、追加の検査や治療を行った。その結果、医療保険の給付は大幅にかさんだ。つまり、カードの発行がトリガーとなって、受療の上昇につながったことになる。なおその後、この保険会社は、カードの取扱いを終了することとなった。保険会社は、契約者オプションについて、契約時に設定される段階と、設定されたオプションが行使される段階の、2つの段階の管理を行う必要がある。それらを簡単にみていこう。
1|契約時のオプション設定が重要
契約時に取り交わされる契約条項は、契約者行動に対処するための重要なポイントとなる。契約時に、どのようなオプションを契約者に付与するかが、契約後の契約者行動に大きく影響するからである。また、併せて再保険の活用など、リスク分散のための枠組みの整備も図られる。
(1) 契約条項に契約者の義務を規定する (特に損害保険の場合)
1) 保険給付につながるかもしれない事故の通知義務を課す
2) 損害額の規模を抑制するための矯正策を義務づける。
3) 損害に至る前の注意義務を要求する。
4) 資産価値に見合う保険金額の購入を求め、資産価値を下回る場合は強制的に保険に加入させる。
(2) 契約引き受け前にエクスポージャーを調査する。たとえば、付保対象の家や自動車が実在していて現時点で損害がないことを確認する。
(3) 任意再保険を購入して、リスク分散を図る
(4) 特定の顧客に対して、モラルハザードの見込みを評価するなど、引き受けを厳格化する2|保険会社が契約後にとることのできる管理活動は限定される
契約後に、保険会社がとることのできる管理活動は限定される。配当の決定などは、比較的とりやすい。一方、保険料や契約条件の見直しは、契約者の財産権を侵害する恐れがあるため、その同意を得なければ進められないとみられる。レポートでは、典型的な行動として、つぎの7つ挙げている。
(1) 毎年度の配当決定
保険会社は、契約者配当の仕組みを有している場合がある。その場合、毎年の配当決定において、契約者行動を考慮する。
(2) 保険料や契約条件の変更
保険当局によっては、契約者行動によって財政状態が悪化した場合に、保険会社に保険料や契約条件の変更を認めることがある。この管理活動は、保険当局の同意を要する。ソルベンシー要件の計算に保険料や契約条件の変更をどのように組み入れるかは、保険会社を管轄する保険当局による。
(3) 運用資産の再配分
保険会社が保有する株式の上限や、特定の資産のヘッジについて法的規制が課されている。
(4) 再保険戦略の変更
出再の拡大・縮小や、出再条件の変更などを通じて、リスク分散を見直す。
(5) 給付支払方法の変更
給付発生時の支払方法を見直す。たとえば、契約条項に照らして支払管理や給付の方針を、寛容にしたり、厳格化したりすることが考えられる。その際、販売時の契約者の期待も考慮する必要がある。
(6) 販売戦略の変更
販売経費を削減する。特に、ある商品の保有契約規模が小さくなったときには、費用の削減が考えられる。商品によっては、販売停止とする取り扱いも検討される。
(7) 販売手数料の見直し
契約者行動が販売チャネルの影響を受けている場合、販売手数料の見直しも視野に入ることとなる。
5――行動経済学の応用
行動経済学では、研究や実験を通じて、さまざまな知見が得られている。レポートではそのうちのいくつかが紹介されている。これらの知見が、契約者行動の理解に役立つものとみられる。
(1) リスク回避・リスク追求行動
人は、利益が生じていると、リスクを回避して黒字分を確保しようとする。一方、損失が発生している場合は、赤字分を取り戻そうと果敢にリスクをとる傾向がある。その結果、含み益がある運用資産は売却して利益を確定しようとする。一方、含み損が生じている運用資産は保持し続けようとする。
(2) アンカリング効果
「アンカリング効果」とは、人の判断は、印象に残る情報によって影響を受けやすいことを指す。たとえば、300万円で買ったモノの値段が350万円に上がれば50万円得をしたことになる。しかし、「値段が一度400万円に上がった後、350万円に下がった」という情報が示されると、「50万円損をした」と感じやすい。
(3) 生命保険顧客の慣性状態
通常、生命保険の顧客は、加入時点で、契約を将来失効させようと予定していることはないだろう。そして、加入後は、加入している状態がいわば物理学の「慣性状態」のようになり、加入を継続する。特に、満期保険金がある場合や、他社商品との比較が困難な場合には、契約を継続しやすい。
(4) 裕福な人は損失を負っても鷹揚
もし同じ金額の損失を負ったとしても、裕福な人は、貧困状態にある人に比べて、鷹揚に構えることが多い。保険でも、契約者の保有資産や所得水準によって、失効の発生状況が異なるとみられる。
6――おわりに (私見)
契約者行動をどのように予測し、どのように対応すべきかということは、保険会社にとって古くて新しい問題といえる。この問題は、物事を一面的に捉えるだけでは、うまくいかないことが多い。人間の行動を決定する要因には、さまざまな事柄が絡んでおり、その構造は人によって異なるからだ。
そこで、契約者行動に対する管理活動の構え方としては、事前にリスクのケースを決め打ちするのではなく、リスク管理の過程を通じて試行錯誤を繰り返していくことや、臨機応変にリスク対応戦略を見直していくことが必要と考えられる。意思や感情を持つ人間を相手にする保険では、契約者行動の管理は、究極のリスク管理ともいえる。その展開に引き続き、注目していくことが必要であろう。
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保険会社にとって、契約者の行動は、経営上、大きなリスクとなる可能性がある。保険会社は、契約者行動に関する実証分析や、それに応じてとるべき管理活動の研究を進めている。
本稿では、レポートの内容をもとに、契約者行動と保険会社経営について、概観することとしたい。
■目次
1――はじめに
2――契約者行動の特定と認識
1|契約者行動は合理的なものばかりではない
2|リスク基準などに、契約者行動を考慮する取組みが広がっている
3――契約者のオプションと行使トリガー
1|契約者のオプションには、さまざまなものがある
2|オプション行使トリガーにも、さまざまなものが考えられる
4――契約者オプションの管理と保険会社の管理活動
1|契約時のオプション設定が重要
2|保険会社が契約後にとることのできる管理活動は限定される
5――行動経済学の応用
6――おわりに (私見)国際アクチュアリー会(IAA)は、保険会社のERM1に向けて、さまざまなリスクを取り上げて解説する「リスクブック」という名前のレポート(以下、単に「レポート」)を発行している。2017年に、その第18章として、「契約者行動と管理活動」が発行された2。
保険会社にとって、契約者の行動は、経営上、大きなリスクとなる可能性がある。たとえば、契約を解約するという契約者の行動は、大数の法則が成立する一定規模の保有契約群団を前提として、安定的に事業運営を進めようとする保険会社にとって、脅威となる。昨今の情報通信技術(ICT) の高度化や、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)の広がりを背景として、契約者の行動は、複雑多様で即時性の高いものに変容しつつあるとみられる。これに対して、保険会社は、契約者行動に関する実証分析や、それに応じてとるべき管理活動の研究を進めている。
本稿では、レポートの内容をもとに、契約者行動と保険会社経営について、概観することとしたい。
1 Enterprise Risk Managementの略。全社的リスク管理を指す。
2 2018年12月現在、20個の章がラインアップされており、そのうち18個の章が発行されている。IAAのアドレスは、http://www.actuaries.org/index.cfm?lang=EN&DSP=PUBLICATIONS&ACT=RISKBOOK 。第18章のタイトルは、“Policyholder Behaviour and Management Actions”Jari Niittuinperӓ (IAA Risk Book Chapter 18, approved on 14 February 2017)
2――契約者行動の特定と認識
そもそも契約者行動はどのように特定、認識されているのか。まず、この点からみていこう。
1|契約者行動は合理的なものばかりではない
一般に、契約者には、契約の失効や解約をはじめ、契約転換、積み立ててきた配当金の引き出し、契約者貸付制度の利用など、さまざまな選択肢(オプション)が与えられている。経済金融情勢の動向や、被保険者の体況変化などに応じて、これらのオプションの価値は上がったり下がったりする3。加えて、契約者の資金ニーズの変化なども、これらのオプションの行使に影響を与える。
契約者行動には合理的なものもあるが、そうとばかりはいえない。人間は、機械と違って、意思や感情を持っている。それらが、行動に大きな影響をもたらすためだ4。レポートでは、合理的な契約者行動の例として、つぎのものが挙げられている。一方、契約者が行動を起こすのに必要な情報を十分に持っていない場合や、契約そのものとは別の特殊な事情(契約者の急迫した資金ニーズや、保険会社の風評関連報道など)がある場合には、不合理な契約者行動が発生する可能性がある、としている。たとえば、別の契約者によるモラルハザードや逆選択、保険金詐欺などが起こると、それによって契約者の不合理な行動が生じることがある。
3 オプションを行使すると利益が得られる状態はin the money、利益が得られない状態はout of the moneyと呼ばれる。
4 人は理屈ではなく感情で動く生き物である、ということが言われることもある。
現在、リスク管理や会計基準の見直し検討が行われている。その中で、将来のキャッシュフロー推計を行う際に、契約者行動を考慮することが、規定として盛り込まれるようになってきている。
(1) ヨーロッパにおける保険会社の健全性規制 (ソルベンシーII規制)
保険や再保険の引き受けにおいて、契約者が、失効、解約などの契約上のオプションを行使することを見通す際は、過去の契約者行動の分析や、想定される契約者行動の見積もりを行う5。
(2)保険契約に関する国際会計基準 (IFRS 17)
保険契約のキャッシュフローの評価の際は、契約者行動についての保険会社の見方を反映する。また、リスク調整を行う際は、実際の契約者行動が、想定していたものとは異なった場合について、保険会社の見方を反映する6。
規制上や会計上には、「契約境界(contract boundaries)」に関する規定もある。契約境界とは、保険料のキャッシュフローを認識するかしないかという境界を指す。つまり、既に締結された契約と、まだ締結されていない将来の契約の間の線引きである。現在の規定によると、この契約境界を見極める際に、契約者行動やそれに対する管理活動を考慮することとなる。
たとえば、保険会社側が契約を終了したり、保険料の収納を拒否したり、保険料や給付内容を改定したりすることができる旨の契約条項がある場合、それらに対する契約者の反応が予想される。このため保険会社は、契約者の反応を予想して、それを契約境界の設定に反映させなくてはならない。
ただし、ORSAシナリオ7、ALMモデル、市場整合的な経済価値(MCEV)ベースでの試算の場合は、こうした契約境界を外すことが適当となる8。すなわち、契約者行動の想定を、リスクが消失するまでの期間に渡って、保持し続けることが求められる。特に、契約境界が1年以下で、保険会社が新契約の販売効果を試算に反映したいと考えている場合、契約境界を外して長期の収支をみることが必要となる。
5 “Implementing measures on SolvencyII”Commission Delegated Regulation(EU)2015/35, art26
6 Insurance Contracts - Exposure Draft ED/2013/7
7 ORSAは、Own Risk and Solvency Assessmentの略であり、 リスクとソルベンシーの自己評価のことをいう。
8 ALMは、Asset Liability Managementの略。MCEVは、Market Consistent Economic Valueの略。
3――契約者のオプションと行使トリガー
レポートでは、契約者行動に影響を与えるオプションと、その行使トリガーの例が列挙されている。
1|契約者のオプションには、さまざまなものがある
レポートでは、契約者のオプションとして、14個の項目が挙げられている。これらは、必ずしも網羅的とはいえないが、保険契約の代表的なオプションを把握する上では、意味があるといえるだろう。2|オプション行使トリガーにも、さまざまなものが考えられる
契約者がオプションを行使するかどうかについては、いくつかのトリガーが考えられる。レポートでは、つぎの11個のトリガーを例示している。オプションに付随する潜在的な費用をモデル化するためには、トリガーを把握する必要がある。
シンガポールでは2003年に、重症急性呼吸器症候群(SARS)が発生し、観光客のキャンセルが相次いだ。その結果、経済不況となり運輸、観光、小売業などで従業員の大量解雇が行われた。解雇された従業員は、加入している保険契約を失効させた。つまり、SARSの発生が契約失効のトリガーとなった。
また、別の事例。医療保険を取り扱うある保険会社が、契約者に、医療費の支払いに使用する保険会社カードを渡した。契約者は、そのカードを使えば費用負担なしで病院の医師の診療を受けられる。診療する医師は、診療による患者の費用負担がゼロであることを知り、追加の検査や治療を行った。その結果、医療保険の給付は大幅にかさんだ。つまり、カードの発行がトリガーとなって、受療の上昇につながったことになる。なおその後、この保険会社は、カードの取扱いを終了することとなった。保険会社は、契約者オプションについて、契約時に設定される段階と、設定されたオプションが行使される段階の、2つの段階の管理を行う必要がある。それらを簡単にみていこう。
1|契約時のオプション設定が重要
契約時に取り交わされる契約条項は、契約者行動に対処するための重要なポイントとなる。契約時に、どのようなオプションを契約者に付与するかが、契約後の契約者行動に大きく影響するからである。また、併せて再保険の活用など、リスク分散のための枠組みの整備も図られる。
(1) 契約条項に契約者の義務を規定する (特に損害保険の場合)
1) 保険給付につながるかもしれない事故の通知義務を課す
2) 損害額の規模を抑制するための矯正策を義務づける。
3) 損害に至る前の注意義務を要求する。
4) 資産価値に見合う保険金額の購入を求め、資産価値を下回る場合は強制的に保険に加入させる。
(2) 契約引き受け前にエクスポージャーを調査する。たとえば、付保対象の家や自動車が実在していて現時点で損害がないことを確認する。
(3) 任意再保険を購入して、リスク分散を図る
(4) 特定の顧客に対して、モラルハザードの見込みを評価するなど、引き受けを厳格化する2|保険会社が契約後にとることのできる管理活動は限定される
契約後に、保険会社がとることのできる管理活動は限定される。配当の決定などは、比較的とりやすい。一方、保険料や契約条件の見直しは、契約者の財産権を侵害する恐れがあるため、その同意を得なければ進められないとみられる。レポートでは、典型的な行動として、つぎの7つ挙げている。
(1) 毎年度の配当決定
保険会社は、契約者配当の仕組みを有している場合がある。その場合、毎年の配当決定において、契約者行動を考慮する。
(2) 保険料や契約条件の変更
保険当局によっては、契約者行動によって財政状態が悪化した場合に、保険会社に保険料や契約条件の変更を認めることがある。この管理活動は、保険当局の同意を要する。ソルベンシー要件の計算に保険料や契約条件の変更をどのように組み入れるかは、保険会社を管轄する保険当局による。
(3) 運用資産の再配分
保険会社が保有する株式の上限や、特定の資産のヘッジについて法的規制が課されている。
(4) 再保険戦略の変更
出再の拡大・縮小や、出再条件の変更などを通じて、リスク分散を見直す。
(5) 給付支払方法の変更
給付発生時の支払方法を見直す。たとえば、契約条項に照らして支払管理や給付の方針を、寛容にしたり、厳格化したりすることが考えられる。その際、販売時の契約者の期待も考慮する必要がある。
(6) 販売戦略の変更
販売経費を削減する。特に、ある商品の保有契約規模が小さくなったときには、費用の削減が考えられる。商品によっては、販売停止とする取り扱いも検討される。
(7) 販売手数料の見直し
契約者行動が販売チャネルの影響を受けている場合、販売手数料の見直しも視野に入ることとなる。
5――行動経済学の応用
行動経済学では、研究や実験を通じて、さまざまな知見が得られている。レポートではそのうちのいくつかが紹介されている。これらの知見が、契約者行動の理解に役立つものとみられる。
(1) リスク回避・リスク追求行動
人は、利益が生じていると、リスクを回避して黒字分を確保しようとする。一方、損失が発生している場合は、赤字分を取り戻そうと果敢にリスクをとる傾向がある。その結果、含み益がある運用資産は売却して利益を確定しようとする。一方、含み損が生じている運用資産は保持し続けようとする。
(2) アンカリング効果
「アンカリング効果」とは、人の判断は、印象に残る情報によって影響を受けやすいことを指す。たとえば、300万円で買ったモノの値段が350万円に上がれば50万円得をしたことになる。しかし、「値段が一度400万円に上がった後、350万円に下がった」という情報が示されると、「50万円損をした」と感じやすい。
(3) 生命保険顧客の慣性状態
通常、生命保険の顧客は、加入時点で、契約を将来失効させようと予定していることはないだろう。そして、加入後は、加入している状態がいわば物理学の「慣性状態」のようになり、加入を継続する。特に、満期保険金がある場合や、他社商品との比較が困難な場合には、契約を継続しやすい。
(4) 裕福な人は損失を負っても鷹揚
もし同じ金額の損失を負ったとしても、裕福な人は、貧困状態にある人に比べて、鷹揚に構えることが多い。保険でも、契約者の保有資産や所得水準によって、失効の発生状況が異なるとみられる。
6――おわりに (私見)
契約者行動をどのように予測し、どのように対応すべきかということは、保険会社にとって古くて新しい問題といえる。この問題は、物事を一面的に捉えるだけでは、うまくいかないことが多い。人間の行動を決定する要因には、さまざまな事柄が絡んでおり、その構造は人によって異なるからだ。
そこで、契約者行動に対する管理活動の構え方としては、事前にリスクのケースを決め打ちするのではなく、リスク管理の過程を通じて試行錯誤を繰り返していくことや、臨機応変にリスク対応戦略を見直していくことが必要と考えられる。意思や感情を持つ人間を相手にする保険では、契約者行動の管理は、究極のリスク管理ともいえる。その展開に引き続き、注目していくことが必要であろう。
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